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日本ジャーナリスト教育センター(Japan Center of Education for Journalists)の活動を紹介しています!

ワークショップ「みんなで考える、東京から被災地大槌へ伝わるニュース」参加者報告 vol.1

8月18日に開催したワークショップ「みんなで考える、東京から被災地大槌へ伝わるニュース」の参加者報告を大槌町吉里吉里地区出身の北田竹美さんに書いて頂きました。

【イベントの概要】                            

■ワークショップ「みんなで考える、東京から被災地大槌へ伝わるニュース」に参加して

先日、私の故郷が大槌町吉里吉里という縁で、大槌を取材に来ていた日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)のメンバーである田中さん、松本さんにお会いする機会を得、「大槌みらい新聞」を発行するということを知った。そして幸いにも今回、JCEJ主催「みんなで考える、東京から被災地大槌へ伝わるニュース」というワークショップに参加することになった。

ジャーナリズムという世界には縁もゆかりもない人間だが、以前より地元メディアの必要性を強く感じていたことと、「大槌みらい新聞」発行元である「NewsLab♡おおつち」の取り組みが、新聞だけでなく、Webサイト、そしてソーシャルメディアを重要な発信手段と位置づけていることに、日頃ITに携わる者として大いに興味を抱いた。それと少しは町民目線からの意見が言えるかも知れないという思いがあった。

ワークショップでの議論で最も印象的だったのが、代表である藤代さんの、「町民の受信力が弱いというのはメディアの奢りである」という発言であった。

話は時代を少し戻るが、大槌は古来、陸の孤島と言われてきた過疎地である。
話題と言えば、1982年(昭和57年)井上ひさし氏の著作「吉里吉里人」に端を発し、地域おこしの一環として、吉里吉里がミニ独立国「吉里吉里国」として“独立宣言”。1980年代における「ミニ独立国ブーム」のきっかけとなったことぐらいであろう。
レストランやカフェなどという洒落たものは全くもって無い。盛岡、宮古、釜石間を繋いでいた山田線は一日に数本しか走っていなかった。未だにスマートフォンってなんだ?という土地柄である。そしてさしたる産業もないため就職機会も多くはない、勢い理想に燃えた若者は都会へ意識が向いていくから過疎化は一層深刻になる。それが高度成長時代から現在に至るまで脈々として続いてきた大槌の歴史である。
従って良く言えば濃密な人間関係社会が形成されており、悪く言えば閉鎖的環境を生む土壌がある。

しかし、リーダーを初め、ボランティアの学生の皆さんには、上から目線は微塵も感じられなかった。素直に住民と同じ痛みを共有しようとしている。人々と率直に向き合い、町民の中に入っていこうとする姿勢が活動の根底にある。議論も真剣そのもので、これがこのグループの共通のスタンスなのだと納得した。そして、ともすれば被災者に寄り添うことばかりが強調されるが、この先大槌に必要なのは、寄り添うこと以上に、破壊された住民同士の関係を再構築し、一刻も早く元の生活を取り戻すための具体的行動を、町民を上げて起こすことである。そのために何ができるか、「大槌みらい新聞」はこの問いを新聞作りの基本としている。

現地では今盛んに様々な支援活動が行なわれている。地元住民からすれば「ありがたいが、いちいち付き合っている暇は無い」というのも正直な思いだ。その意味で藤代代表の「町民の中に入っていくことがまず第一」という考えは正しいアプローチであり、これを無くして新聞の存在意義はないと思う。

ワークショップは、前半が「大槌町の取材活動と現状について」報告があり、後半は「東京から大槌に発信する情報とはなにか」というテーマについて話し合い発表するという形式であった。絆をテーマとするものが殆どであったが、中には「大槌出身の芸能人パパラッチ」などという企画提案があり、祭り好きの町民には意外と受けるかもしれないと感じた。いろんな考え、企画があって良いと思う。私自身はあまり気が利いたことは言えなかったけれども、今こうして大槌のために多くの人々が真剣に議論し、考えてくれているということ自体がうれしく、今すぐにでも大槌の人々にこの事を伝えたい衝動に駆られた。

課題も無いわけではない。まず一番に考えなければならないのは運営資金の調達である。聞けば現在はボランティアの皆さんのご好意と、寄付金で運営しているとのこと。新聞もしばらくは無料配布と聞く。津波による死亡率が人口の10%にも及び、大槌町の人口流出率は14%と宮城、福島、岩手3県の中でトップである。そんな中で一般紙同様、町民からの購読料だけで運営を維持していくのは至難の業に思える。様々な対処策を講じていくとお聞きしているが、その戦略こそが命綱だ。

それと活動メンバーの調達。現在は学生さんを中心に継続的に運営していくようだ。しかし、地元の新聞というからにはやはり住民が活動メンバーとして参画できなければ本当の意味で「大槌の新聞」にはならないだろう。ボランティアに頼らない自立した組織体にするために私も側面から応援していきたい。

私は去年来、何度となく帰省し、身を粉にして働いている役場職員をはじめ、町民の方々の姿を目の当たりにしてきた。しかし、震災から1年半が過ぎようとしている現在、現地ではやっと復興計画が発表されたに過ぎない。高台移転用地の地権者は一箇所、数100に達し、しかも明治時代まで遡る所もあるという。用地買収をしようにも手間が掛かることが多すぎるのだ。そういうことも手伝ってか雇用促進住宅も3000戸の被災に対し、未だ900戸強の住宅しか供給できていない。

人々はここに長い間平和に暮らしてきた。

その人々が一瞬にして全てを破壊され放り出された。親戚を頼れる人は良い方で、寄る辺の無い人々は狭い仮設住宅に入ることを余儀なくされ、子供を頼り遠く内陸に移住しアパート暮らしを強いられている老夫婦も多いと聞く。また、家族を失い、ここにはもう住めないと泣く泣く故郷を去って行った人々がいる。大槌が終の棲家であることが、それこそ空気のように普通だった人々にとって、様々な思い出を刻んだ町と多くの友人を残して故郷を去る胸中は如何ばかりであっただろうか。そして何よりも突然にこの世を去った人々の無念さは筆舌に尽くしがたい。私達にはこの無念さを将来に伝えていかねばならない義務がある。そしてその上に新しい大槌をなんとしても復興させなければならない。そのための「大槌みらい新聞」であって欲しいと切に願う。
(北田 竹美)

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