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「補助金なんか要らねえ」地域のもうひとつの物語「幸せですか? ダムに沈んだ桜の集落「集団移転」の今」

JBpressに「ジャーナリストキャンプ飯南2011」*1で執筆された記事が掲載されました!記事を書いたのはJCEJ運営委員で、地方紙で記者をしている田中さんです。

「補助金なんか要らねえ」の気骨が地域を再生 島根県飯南町:ダムに沈んだ地区が選んだ「会社経営」

 田中さんは初稿では「人」に焦点を当て、ダムに沈んだ桜に対する住民の想いなどを書いたエピソードを入れていましたが、JBpressがビジネス系の媒体であるという特性を踏まえて「自主自立に焦点を絞った方が読まれる」というJBpressの川嶋編集長のアドバイスをもらって書き直し、現在の記事になりました。

田中さんの初稿の記事をご紹介するので、ぜひ読み比べてみてください。


幸せですか? ダムに沈んだ桜の集落「集団移転」の今

 東日本大震災後の復興をめぐる議論で「集団移転を検討」と耳にするたび、心がざわついた。確かに、将来の津波のリスクを考えれば当然かもしれないと思う半面、住み慣れた土地を離れて一から暮らしなおすという、決して簡単ではないと思われることが、現実味を持って語られることへの恐れと言ってもいいかもしれない。

 実際に移転した人は、今、どう思っているのだろうか。ダム建設に伴って集団移転した島根県内の例では、最初こそ「水没地への郷愁」「被害者」といった切り口で語られたものの、その後の状況や住民の本音は、ほとんど伝わってこない。移転して良かった、幸せだ、と感じているのだろうか。住民に会って、直接聞いてみたい。やはり、厳しい現実に直面していることもあるのではないか。こんな思いを胸に、該当する飯南町志津見(しつみ)地区を歩いた。


ダムに沈む桜
 志津見地区では、国の志津見ダム建設事業に伴い、1991年から92年にかけて、水没地域に住んでいた64世帯のうち25世帯が、近くに造成された4つの団地に移り住んだ。ダム本体は、1986年に着工し、2011年5月に完成している。 取材に入る前日、町の関係者から、興味深い話を聞いた。ダム建設の最終工程で、満水位まで水を貯める試験湛水(たんすい)が行われた昨春、ちょうど桜が満開を迎えた。移転前の元の集落は水底に沈んだが、ピンクに色づいた花の一部だけが水面から顔を出すという不思議な風景が見られ、町内の話題になったという。慣れ親しんだ桜が水没する。思わず感傷的になって涙が出そうになった。住民は、どんな思いでそれを見つめたのだろう。

 当日、元の集落が見渡せる高台にある食事所「うぐいす茶屋」を訪れた。その桜の写真が大きくパネルになって飾られていた。やはり思い入れが深いのだろうか。働いている同地区の安部征津子さん(66)に、早速、尋ねた。エプロン姿の安部さんは、ニコニコしながら「すっごくきれいで、感激したのよ!」。

 「かっ、感激ですか?」。予想外の答えに、思わず聞き返すと、安部さんは「桜も山の緑も水面によく映って本当にきれい。ここも湖畔のお店になったみたいって自慢していたのよ。いつも湖だったらいいのに」。

 地区の住民のもう一人、山下潔さん(76)は、私の質問が終わらないうちに身を乗り出して「しまったなーと思ってなあ」と口にした。その心は「桜の写真をNHKに売り込めば良かったのに、しなかった。地域の知名度アップになったのに」。
 私の想像はことごとく裏切られ、ノスタルジーを胸に抱いた住民というイメージは覆された。気持ちがいいほどに。むしろ「人って強い」と、感動した。なぜ、こんなに前向きに、力強くいられるのか。

「希望」「夢」「目標」
 集団移転の際に、何が必要だったのか、尋ねた。一人は「希望」、もう一人は「夢」、そしてもう一人は「目標」。それぞれの表現は違ったが「新しい土地で、住民一人一人、そして地域全体が、前を向いて挑戦することができるもの」という意味を込めていることは、共通していた。

 志津見地区のそれは、地域振興のために、移転後の地域に残った全25世帯が出資して設立した「有限会社 志都(しづ)の里」だった。「地域で仕事をつくりながら、地域を守る」のがミッション。現在、農地付きの貸し住宅「クラインガルテン」のほか、食事処の「うぐいす茶屋」や、ヤマメの釣り堀などを運営している。

 設立から8年。毎年、収支はとんとんだ。ちなみに、2009年度の純利益は23万円。周辺人口が少ないハンディの中で、踏ん張っていると言える。クラインガルテンは、隣県の広島からを中心に全20区画が常に埋まるほど人気で、新たに5区画を増設中。うぐいす茶屋は、安部さんたち女性17人が交代で勤務し、地元産にこだわった料理でもてなしている。中でも、素朴な味わいの豆腐とおからが人気。今年新メニューに加えた出雲そばが、大当たりで、さらににぎわうようになった。

 確かに「希望」は必要かもしれないが、続かなければ意味がない。続けるために、土台となる地域のコミュニティーを丁寧につむぐ仕掛けと努力もあった。全25世帯は月1回、常会で顔をそろえる。そこで、志都の里の事業報告や今後の計画を話し合う。高齢となり参加できない数世帯をのぞき、20年経った今でも、毎回、ほとんど全員が参加。よく発言する人は限られてはくるものの、お互い納得いくまで議論するという。ときにぶつかることもある。地区の集会所の拡張は、反対の意見が出て、中止になった。

 さらに、山下さんは「大事な話ほど、うぐいす茶屋で、わざと茶飲み話をした」という。確かに、常会で報告、議論はするが、参加は夫が多い。しかし、夫は帰宅して妻に話すとは限らず、むしろ、話すことは少ない。そのため、女性が集まるうぐいす茶屋で話すと、あっという間に口コミで伝わり、広くコミュニティーに共有できた。世間でよくある「俺(私)は聞いていない」というトラブルはないのだという。


「受益者」という視線
 移転者は、被害者的な捉えられ方の一方で、「補償費をたくさんもらったのだろう」といった、受益者としての見方も付きまとう。「ダム御殿」との言葉もあるが、これは、補償費で立派な家が建ったという意味。加えて、移転の代償として、地域振興を理由にした行政支援も引き出しやすい。むしろ「たかっている」とすら見られる構図もある。

 志津見地区は特に、時代が良かった。移転交渉時はちょうどバブルがはじける前の好景気。行政も財政難に悩む状況でもなく、交渉はスムーズに進んだ。移転住民たちも、さすがに直接言われたことはないとのことだったが、妬みや陰口をまとった視線は感じることがあったようだ。そのせいかどうかは分からないが、面白いほど「身の丈」を意識し、徹底していた。

 当初の志津見ダム周辺開発計画は、ホテル経営などを含めた「花の大使館構想」という壮大なプランだったが、2年間かけてワークショップの結果、縮小を決定。その際の基本理念がちょっと変わっている。「将来の状況に過度の期待をかけない、背伸びをしない計画」。先進地を視察し、クラインガルテンなら運営ができると判断し、主力事業に採用した。

 縮小には異論も出そうなものだが、当初から代表取締役を務めていた藤原昭男さん(69)によると、ダム周辺地域の研究を重ねて大規模施設の維持管理に苦労している現実を目の当たりにしたことで、方針転換が共有できたという。

 さらに、志都の里への町からの補助金はゼロ。もらい出すと「甘え」が生まれ、歯止めがきかなくなると考えた。町からの受託事業はあるものの、この方針は守っていきたいという。ただ、今後控える施設の更新や修繕の費用を積むほどの経営はできていない。最初こそ町が施設整備はしたが、今後、どうするかの取り決めもないため、そのための基金を設けておけば良かった、と反省する声を聞いた。

 それでも、今年、志都の里の代表取締役は、藤原さんから空岡健さん(57)に、うぐいす茶屋の店長も、安部さんからIターン者の高岡晃さん(39)へと交代した。「次の世代に引き継ぐことができたのが、何よりも嬉しい」と安部さん。「この成功は、他の地域は羨ましいと思うよ。町長が一番驚いているんじゃない」と笑った。


「時間」の力
 もう一つ疑問があった。生まれ育った土地を離れるということを、どう気持ちの折り合いを付けた、もしくは付けてないのだろうか。志津見地区でも、多くのダム建設地と同じように、計画が示された1969年当初は、反対の声が強かったという。

 ただ、志津見地区は、以前から、ダム建設の可能性がささやかれていた。そのため、子どもを地区外に就職させる家が相次いでいた。正式に計画が示されたときには、既にあきらめの雰囲気が漂っており、「来るべきものが来た」という受け止め方もあったという。それは、同時に計画が示された隣接町の尾原ダムより5年も早く、同意と事業着手に至ったことにも現れている。

 とはいえ、1ヘクタールの農地を持ち、牛も飼っていた山下さんは、強硬に反対していた。ダム建設は下流の洪水防止が目的で、恩恵がない地区が犠牲となることに納得できなかった。さらに「生まれ育った先祖代々の土地も、住む権利も、何で上から押さえつけられて、取られんといかんか」と反発もあったが、「生活再建に絶対、責任を持つから」と説得する町長や県担当者の熱意を前に「もう反対してもだめだ」と受け入れる瞬間があったという。

 山下さんはこの土地と人に愛着があり「外に出るのは苦痛」と近くへの集団移転に手を挙げたが、最終的に、元の住民の6割にあたる世帯が町外へ出ることを選択。中には「これで捨てることができた」という人もいたという。移転は、それぞれが「生きなおす」きっかけだった。結びつきが強いことが自慢だった64世帯は、25世帯に減った。

 元の集落であった最後の盆踊りは、集落中の人が参加して盛大に行われた。「にぎわったけど、寂しい者同士、寄り添って慰め合う感じだったなあ」。懐かしそうにほほえむ山下さんの目尻の皺が、移転後に経過した20年という長い年月を感じさせた。


幸せですか?
 想像以上に団結して地域づくりに取り組んでいる状況を知るにつけ、移転して良かった、幸せだ、と答えるのではないかと想像し、尋ねた。しかし、明確な答えは返ってこなかった。またも私の想像は裏切られた。

安部さんは「(うぐいす茶屋での仕事が)まあ、ぼけ防止になるからねえ」。山下さんは「やってよかったとは思うよ。前の集落のまま、何もしなくても、確実に年だけはとる。でも、孫の代が定住してこそ本当にそう思えるかなあ」とぽつり。藤原さんは「良かったとか幸せとかじゃなくて、移ることを決めたら前向きにしか進めないから」と言った。

 翌日、藤原さんに、例の桜の木のところに連れて行ってもらった。ダムの上流にあたるため、大量に水が貯まるとき以外は、その集落も桜も水没はしない。霧雨の中、小さな川のほとりに、桜の木はたたずんでいた。「横には集会場があったんだ」。緑の草で覆われた空き地を見ながら、藤原さんが説明する。昨春は満開の花を咲かせた桜も、水没の影響か、今年は花を付けなかったという。「生きていればよかったけどなあ。でも、これを切り倒して、地区に展示しようかと思っちょる…」。ツタに覆われた太い幹に、藤原さんはそっと話しかけた。(田中輝美)桜の写真は山本写真スタジオ提供


参加者の方の記事は続々掲載されています。掲載された記事はブログで紹介していきます!

*ジャーナリストキャンプのレポートはこちら

(学生運営委員・木村 愛)

*1:日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)が8月19日〜21日に島根県飯南町で行った、トレーニングプログラムです。記者、NPOやPR会社で働いている人など、様々な参加者が参加し、記事の企画、取材、執筆を行いました。(参考:ジャーナリストキャンプ飯南2011を行います