#JCEJ 活動日記

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フェイスブックを使った事がない僕は原始人だった 参加者報告vol.3

日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)では、若手向け「ジャーナリストキャンプ広島2012」を4月29日から1泊2日の日程で実施しました。
<概要はこちらから>

<これまでの参加者報告>

今回は、参加者の山田克芳さんにレポートを書いて頂きました。

もしかするとすごく的外れなことを言うかもしれない。すごくくだらないことを考えているのかもしれない。でも、たぶん、キャンプにいらした方ならば、とりあえずは「いいね」と言ってくださるはずだ、たぶん、とりあえず…。

新聞はもうだめだとか、とっくにネットの時代が来ているのに、それに迎合できないひとって本質的に記者に向いてないとか、そういうことはひとまず置いておくにせよ、物書き全員が願うのは「真実」を書くこと、「真実」に近づくことだと思う。

本当のことを、あますことなく、緻密に書きたい。間違ったことを書きたがる人はいない。
戦後・現代を代表する詩人、谷川俊太郎の詩集『定義』のなかに、「りんごへの固執」という詩がある。少し引用してみる。

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。
丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。
酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。
高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。
きれいということはできない、美ではないりんごだ。
分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。
(略)
紅玉だ、国光だ、王鈴だ、祝だ、きさきがけだ、べにさきがけだ、一個のりんごだ、三個の五個の一ダースの、七キロのりんご、十二トンのりんご二百万トンのりんごなのだ。
生産されるりんご、運搬されるりんごだ。計量され梱包され取引きされるりんご。
消毒されるりんご、消化されるりんごだ、消費されるりんごである、消されるりんごです。
りんごだあ!りんごか?
(後略)

ここには、りんごとは何なのか、りんごを説明しようと思っても、なかなかりんごとは何なのかの核心に近づけない物書きの悩みが、諧謔的に表現されている。
「真実」に近づくために千言も万言も費やしていかなければならない詩人の気概みたいなものがある。

まかり間違っても谷川さんの苦労や悩みが分かるとは口が裂けても言えないけれど、
しかし確かに、「真実」なんていうものはひょっとしたら、
そっくりそのまま伝えることがそもそも不可能な代物なのではないかとも思ったりもする。
でも、おそらく、そこに近づくことに、難しさもあれば楽しさもあるはずだ。

キャンプの「夜なべ談義」の中で、とある新聞社の方が、ニュース原稿から漏れ出てしまう裏事情をフェイスブックで紹介する取り組みを、実際に画面を見せながら紹介してくれた。

僕は、正直に言って「すごい」と思った。フェイスブックを使ったことがなかったからだ。
新聞の外で自分の名前を明かして記事が書けるなんて。僕は原始人だった。

ただ一方で、どうしてそれが新聞の中で、言い換えれば新聞の文体でできないのかがどうしても疑問に残った。
フェイスブックで、記事の文体で表現できなかったものを伝えたい。
記事の文体で切り取れなかったニュースの全景を伝えたい。
それは間違いなく、「真実」に近づきたいから行った取り組みであるはずだ。
「真実」に触れたいから、フェイスブックを使うのだ。ソーシャルメディアを使うのだ。

もう僕たちは、新聞の文体、ひょっとすればマスメディアそのものが「真実」に触れるに適さない媒体であることを、心のどこかで知っていて、でも、何か捨てきれない部分があるからこそそれでもまだ新聞にこだわり続けるのかもしれない。
だから、本当を言えば、紙媒体なんか終っている、という人もそうじゃない、という人も
紙のインキが電子の羅列に置き換わるとかどうとかいうことは意に介していなくて、ただ「真実」を伝えるにはなにが一番なのかを模索しているに違いなく、これは、紙が死ぬかネットが生きるか云々という議論はその一点に収斂してほしいという僕の願いでもある。

その夜に、僕は新聞でやりたいことは何か、との質問に「論壇時評」がやりたいと言った。

原発の反対派も推進派も、大震災の復興に意欲的な人もそうでないひとも、
地域の活性化を望む人も郷里の魅力をちっとも感じられずに世界に飛び出るひとも、
死刑制度に賛成のひとも反対のひとも、低所得者を自己責任と呵責なく断罪できる人も、
すべての言論人=世論がタブーなく話す言葉に耳を傾け、そのひとつひとつを紹介し、「書けないもの」がないことを力強く宣言できるような場所を作りたい。
いつもグロテスクであるはずの「真実」について、新聞が「真実」に少しでも近づける空間であるような、そういった場所がほしい。

だから、新しいメディアとはなにか、ということを考えるキャンプでの議論が、その中で「真実」を伝えるにはどうすればいいのか、という議論にシフトしていけたのは、僕にとってはとても勉強になった。

先に引用し、戦後もっとも豊富な語彙を使って人間の営みを表現してきた谷川翁は、あるときこんな言葉を語っている。
「詩は言葉を越えられない。言葉を越えられるのは人間だけだ」。最前線の言葉の使い手がこういうふうにしかいえないことを、僕はいつも肝に銘じてしびれている。(報告:山田 克芳)

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